2025年2月6日木曜日

2025年2月5日(木) リベロの武田

2025年2月5日(木)

人は正しい時に正しい場所で正しい人と出会うという。

もちろん正しいと思った人が間違った人だったということもあるだろう。とんでもなくひどい目にあってしまうときもあるだろう……それは間違った時に間違った場所で間違った人と出会ってしまうこともある、ということなのかもしれません。

それにしたって、人と出会うということは不思議だ。

人と出会うとその瞬間から何かしらの関係性が生まれる。
キックオフ。ボールが蹴り出され、その瞬間から何かが始まる。

果たしてボールがどこに転がっていくのか、それは誰にも分からない。どこにもたどり着かず、タッチラインを越えて消えていってしまうボールも無数にある。パスを出しても返してもらえないことも、またそのパスを受け取ってさえもらえないことだってざらにあるだろう。

人はひとりで生まれてひとりで死んでいく。その時の流れ方というのはまさしく長距離走者の孤独というべきもので、生きとし生けるものはみな死に向かい、一方向にしか流れない時間軸の上をただ孤独に走っていく。

だがしかし!誰かと出会った瞬間に突然足元にボールが現れる。

果たしてボールがどこに転がっていくのか、それは誰にも分からないのであるが、どの方向に転がっていってほしいか、完全にコントロールすることは絶対にできないけど、ドリブルをしながらパスをしながら、その方向を目指していくことは可能なのではないだろうか。

ひとりでは試合が始まらないのである(人間関係というのは試合ではないですが)。

ボールを介さない人間関係というのももちろんあり、それはインターネットが発明されて以降、SNSが広く普及して決定的になったものだと思うが、私たちはボールがなくても誰かとつながることができるようになった。
つながるというよりは、孤独な長距離走者が自分の他にも孤独に走っている人の存在を、それぞれのトラックの上で並走している人たちの存在を認知できるようになった、と言うべきだろう。

それはカイジの鉄骨渡りに似ている。

高層ビルに渡された鉄骨の上でカイジの前を歩く佐原が叫ぶ。

「在(い)るかっ・・・!?」「在(い)るかっ・・・!?そこに・・・・・・」

問われたカイジが叫ぶ。

「在(い)るっ・・・・!」「在(い)るぞっ 佐原っ・・・!」「在(い)るっ・・・・・・!」

そう、私たちはみなそれぞれがひとりで鉄骨を渡る佐原とカイジなのであるが、自分の他にそれぞれの鉄骨を歩いている人というのが間違いなく在(い)て、その存在を確かに感じさせてくれるのがSNSなのである。

閑話休題。

鉄骨の上を歩いていたと思ったらサッカーのフィールドだった。

誰かと出会うと突然足元に芝に覆われたフィールドが広がり、急に確かな足取りで歩いたり駆け回ったりできるようになる。
さっきまでひとりで鉄骨の上を震えながら怯えながら、泣きながら歩いていたというのに。

だがそのフィールドというのは好き勝手に暴れまわっていい場所というわけではなく、あくまでボールとともにある場所である。
足元にボールがある以上、そのボールをどうにかしなくてはいけない。

ひとりでドリブルするのか、相手とパスをつないでいくのか、それを決めるのは自分だ。

誰かと出会って、突然足元にボールが現れて、そこで初めて私は歩いたり駆け回ったり飛んだり跳ねたりできるようになる。大げさな言い方をすると、そこで初めてこの世界で生きていることを嬉しいと思えるようになる。
そうでない人もたくさんいると思うけど、私の場合はそうなのです。

私はサッカーが壊滅的にへたで、というか球技全般苦手なのだけど、このボールを大切に大切に扱っていきたいと思う。

願わくばこのボールがどこかへ消えてしまうことなく、どこまでも遠く転がっていかんことを。

というようなことを、北風の中、私は何度も何度も考えてみる。


■今日聴いた音楽
クボタタケシワークスを集めた自作プレイリスト
μ-Ziq / Royal Astronomy
DJ KUBOTA, TAKESHI / CLASSICS 4

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