2025年5月30日金曜日

2025年5月30日(木) 春村謙吾のしびれ・その2

前回までのあらすじ―

なんか知らんけど3月の終わりくらいから突然左足の小指~かかとくらいにかけて常にピリピリと痺れを感じるようになってしまった春村謙吾であったが、整形外科の先生曰くひとまず薬を飲んで様子を見ましょう、痺れが取れるまで2~3か月はかかるのでじっくり治療していきましょう、ということになった。

ということで薬を一か月くらい飲み続けても特に症状に変わりがなかったので、一度精密検査を受けてください、ということになり、先日専門の医療施設へ行ってMRI検査を受けてきた。

ECDの最後の著書『他人の始まり因果の終わり』で、癌で闘病していたECDがMRI検査を受けるくだりがあったのだが、そこでの描写が凄まじかったのを覚えている。

ECDは激しい闘病により弱り切った体でMRIを受けるのだが、MRIの機器の内部に台上で横たわった状態で入っていき、検査中機械の動作音が爆音で鳴り続ける。機器の内部で横たわり検査を受けるその間、弱り切ったECDが耐えかねて「助けてーっ!」「死にたくないよーっ!」と絶叫し続ける、といったものだったと思うが (うろ覚え) 、私が自分でMRI検査を受けることになり、その壮絶な描写を思い出して震え上がっていた。

ということで検査当日。朝一の検査を予約したため、普段仕事へ行くときよりも早く起きて、支度をしてクリニックへと向かう。

クリニックへ着き、簡単な問診を受けた後、検査着に着替えていざMRIの機器が鎮座ましましている部屋へ。

そこはスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』さながらのような気もしないでもなくもないような部屋のど真ん中にでかい機械があり、なんでも台の上に横たわってMRIの機器内部に吸い込まれていくらしい。

私はびびっていた。問診のときに閉所恐怖症ではないですか、と問われていたので自分は特に閉所恐怖症の気はないが、そう聞かれると急になんだか狭いところに数十分の間閉じ込められるのが怖いような気がしてきて不安が加速する。

台上には頭の形にくりぬかれたような頭部を固定する部分があり、そこに頭を入れて横になるのだが、検査中は大きい音が鳴るのでヘッドホンをしてください、と言われてヘッドホンを渡される。ヘッドホンをした状態で頭がスポッと固定部にぴったりはまるので、ぴったり……と思った。ヘッドホンからは検査中の不安感を和らげるためにイージーリスニングの穏やかなピアノ曲が流れ続けている。検査の間、目は開いててもつぶっててもいいですよ、とのこと。

そしていざ検査開始、ということで、台がウイーンと動き出し、巨大な筒の中へ。

せ、せまい……。すぐ目の前には白い婉曲した壁がある。

自分は閉所恐怖症ではない、そう思っていたが、いざMRIの機器の中に突っ込まれると、なんだか怖くなって呼吸が浅くなり息苦しい感じがしてきた。

ヘッドホンから流れ続けるイージーリスニングのピアノは私の不安感をなんら軽減するものではない。もっとなんかユーロビートとかEDMとかのBPMの速いぶち上げパーティーチューンを爆音で流してほしい。

強い不安感と息苦しさにより、私は迷わず固く目を閉じた。

ヘッドホンの向こうからピーーーーーーーとかガーーーーーーーーとかゴウゴウゴウとかのインダストリアル・ノイズが爆音で鳴っているのが聞こえてくる。
私はWHITEHOUSEなどのパワエレとかノイズとかのCDレコードを若い時分に収集しており、ノイズ・ミュージックに多少慣れ親しんでいたので、そのノイズはさほど不快ではなかった。

早く終わってほしい、とただ祈っていたのだが、今度はそのうちに便意を催してきた。おならがしたいのだが、検査中は動くな、と言われていたので身体を動かしておならの気をそらすことができない。

それにしても、足が痺れていること以外はなんら身体に異常のない健康体の自分でさえMRI検査はしんどいのだから、もっと大変な病気を患っている人にとっては大変負担の大きい検査であろう。

ECDのことや、私の大好きなおばあちゃんのことを思う。うちのおばあちゃんは健康だが。

15分~20分くらい筒の中にいただろうか?検査終わりです、と告げられ、自分の横たわっている台がウイーンと動き出し、筒から出された。

検査着から着替えて待合室で10分ほど待ち、検査結果のデータの入ったディスクを渡されて終了。保険適用で検査費用が8,000円近くかかり、血の涙を流す。

今度はこの検査結果を持って通っている整形外科へと行って先生の話を聞かなくてはならない。

めんどくさい……し、もしMRI検査で大きな問題が見つかっていたらどうしよう。手術とかになったらどうしたらいいんだ。怖すぎるし嫌すぎる。

次回へつづく―

2025年5月21日水曜日

2025年5月21日(水) みんな元気か

「BRKZ spit the flow みんな元気か みんなって誰? I don't know...」

というリリックが『MCビル風のテーマ』という曲の冒頭であるのだが、自分で自分のリリックを引用するようになったら終わりだが、私はラッパーとしてはもう終わっているので構わない。

みんな元気か (みんなって誰) ?

私にはかつて大勢の友達がいたが、今はそのほとんどと疎遠になり、友達と呼べる人もだいぶ少なくなってしまった。

かつて私の友達が、人と人との関係というのは惑星の配列のようなものだ、と言っていた。
それぞれの軌道で周回し続ける惑星たちが、偶然に近づき、そしてまた離れてゆく。

私にそう語ったその人とは、ずいぶん昔に私のせいで絶交されてしまった。笑うしかない。
もう一生会うこともないだろう。

周知のとおり生きとし生けるものみな全て最後には必ず死ぬので、好きな人や会いたい人にはできるだけ会ったり連絡を取ったりしたほうがいい。死んだら会ったり連絡を取ったりすることができないので。

好きな人たちのことを考える。

先日DEV LARGEとLarge Professorの対談が読みたくてFRONTという古い雑誌を某ルカリで購入したのだが、その雑誌に連載されていたDEV LARGEのコラムにてNIPPSからのラブ・ポエムが掲載されていた。
NIPPSの言葉遣い・言葉選びがILLすぎて読んだら度肝を抜かれたのであるが、そこでNIPPSはnothing changes but 天気、という文句を連発していて、要するにこちらは特に変わりなくやっているよ、変わるのは天気くらいだよ、というくらいの意味だと思うが、韻を踏んだその語感は常時あいさつとして使いたいくらいのキャッチ―なものであるが、果たして変わらないものなどあるだろうか。

「いつまで経っても変わらない そんな物あるだろうか」とヒロト・コウモトが『情熱の薔薇』という曲でうたっていたが、「あの時 同じ花を見て 美しいと言った二人の 心と心が今はもう通わない」とザ・フォーク・クルセダーズのカズヒコ・カトウとオサム・キタヤマがうたったとおり、この世に変わらないものというのはおそらくないと思われる。

「僕は元気でいるよ 心配事も少ないよ ただひとつ 今も思い出すよ」とバンプ・オブ・チキンのモトオ・フジワラが『天体観測』という曲でうたっていたが、私も元気でいるし、しかし心配事は金がないことをはじめ色々あるが、ただひとつ今も思い出すし、宛名の無い手紙も崩れる程重なっているのである。

私が何を言ってるのかわからねーと思うが、催眠術だとか超スピードだとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねーのである。
「神様 時間止めて」とザ・コレクターズもうたっていたが、時間を止められるのはディオ・ブランドーと空条承太郎の二人だけであるし、また彼らはまんがの登場人物である。

それぞれの軌道で周回し続けている惑星たちが、今日もまた近づいては離れてゆく。
それぞれの置かれた場所で花々が咲いている。

年齢を重ねるにつれ、それぞれ各人の置かれている環境・生活というのは変わっていくものであるし、会うのが困難になる場合もある。

いつまで経っても変わらない そんなものあるだろうか、ということだけど、まあ過去というのは変わらないというか変えたくても変えようがないので、過去に関しては既に起こった確実なもの、と言えなくもないと思うので、私の中の確かなことといえば、

「こういった場所すべてに それぞれの瞬間がある それにまつわる恋人や友達を 僕はいまだに思い出せる 死んだ人もいるよ 生きている人もいる 僕の人生で 僕はその人たちをみんな愛していた」

とザ・ビートルズのジョン・レノンが『イン・マイ・ライフ』という曲でうたっていたように、私の人生で私はその人たちをみんな愛しておりました。

2025年5月20日火曜日

2025年5月20日(火) 轟



ということで、フィアットパンダ141オートマチックセレクタ (1999年製造) のオーナーとなった。

これまでに5~6回運転して、片道2時間近いところまで遠出したりもした。

購入時の車検で不具合が見つかりこのままでは車検が通らない、ということで海外からパーツを取り寄せて交換した左ヘッドライトだが、これが普通に運転していただけなのにもげそうになってしまい、それを直すために私のパンダは今現在車屋にピット・インしている。あとクーラーが全く動作しなかったためそれも見てもらっている。あと右ドアの内張があろうことか剥がれかけており、そこがなんとガムテープで補強されていたことが判明したのでそれも見てもらっている。

ヘッドライトの接着不良は明らかに車屋の不手際なのでパンダが壊れやすいという話とはちょっと違うと思うが、早速クーラー蛾物故割れているのはさすがパンダだな、と思う。

それにしても、車を運転していると、電車ってすごいな、と思う。

座っているだけで目的地まで着くし、スマホを見たり本を読んだりできるし、ヘッドホンで音楽を聴いていても大丈夫だし、何なら飲酒状態でも乗ることができる。乗車賃もガソリン代より安いし、排気ガスが出ないため、車に比べたらはるかに環境にもやさしい。

車は電車とは違い、己で運転しない限りはどこへもたどり着くことはできない。
どんなにへとへとのくたくたになっていようが、自分で運転しなくてはどこにも行けないので、非情な乗り物である。

事故の確率だって電車より車の方が格段に高い。
ほんのちょっとの不注意が事故に繋がってしまう。そしてその事故というのは人の命を奪ってしまうことがある。

車に乗るようになり、ネットニュースで車の事故についての記事を積極的に読むようになった。
ニュースを見ていると、驚くほどに日本全国どこでも毎日のように車の事故があり、またそれにより多くの人たちが命を落としている。

なんという恐ろしい乗り物だろうか。

最近では高速道路などでの逆走およびそれにより引き起こされる事故がトレンドになっているが、いつ自分が逆走車と鉢合わせてしまうか、またいつ自分が間違って逆走してしまうか分かったものではないため、戦々恐々としている。

自宅から徒歩5分の駐車場まで歩いていき、車のドアに鍵をさしてロックを開け (古い車なので当然のごとくリモートの鍵ではない) 、運転席に座ってハンドルを握ると、果たして事故を起こさずに無事目的地までたどり着けるだろうか?と自問する。人を撥ねずに運転できるだろうか?目的地に着いたら駐車スペースはあるだろうか?隣の車とかにぶつけずに無事駐車できるだろうか?と自問する。

目的地に無事たどり着くことができ、無事に駐車を終え、エンジンを止めたとき、何も事故を起こさずにここまで来れたのは、人を撥ねたりせずにここまで来れたのは、ただのまぐれで偶然で奇跡でしかない、と考える。

分かっていたことだが、都内で暮らしていると、移動は基本電車だけで事足りる。
わざわざ車に乗らなくとも、行きたいところにはおおかた行けるのである。

では何のために車に乗るのか?

車を買っといて何だが、いまいちまだよく分かっていない。

せっかく買ったんだから乗らなくちゃ、というある種の義務感をもって、平日仕事の後でへとへとになっていながらもがんばって車に乗り、ちょっとしたドライブがてら電車では行きづらい遠くのラーメン屋へ何度か行ってみた。

せっかく車を買ったのだから、電車では行きづらい遠くのラーメン屋もしくは中古CDなどを扱っている大きめの古本屋もしくはスーパー銭湯などに行こうかな、と思っていたのだが、前述したとおり車というのは大変な乗り物なので、運転するのにある程度覚悟がいる。まだ何も考えずに自然に運転することができない。あと金がないのでそんなに頻繁にラーメン屋などに行くことはあまり現実的ではない。

ただ無目的に道を走って帰ってくる、本当にただ走ることだけを目的としたドライブ、というのはまだやったことがない。
ラーメン屋等で金を使うためのドライブではなく、ただ走るだけのドライブということにして、秘密の夜景スポット (どこ?) に行ったり、コンビニで缶コーヒーでも買って駐車場でひとやすみして帰ってくればいいのだろうか?

先日片道2時間くらいかけてパートナーの住む家まで車を運転していったとき、それなりの過酷さに食らってしまった。

その帰路はなんとなく出張帰りという雰囲気があった。かつてくそくそドドドくそくそブラック企業 (違法企業) で働いていたとき、24/7/365 日本中をひとりで社用車のハイエースを駆って走り回っていたつらい記憶が呼び起された。

正直なところ、まだ車を買って本当によかった、と心から思えていない。

事故を起こしてしまうかもしれない、人を撥ねてしまうかもしれない、という恐怖と重圧を感じながら神経を使って運転して、へとへとな思いで目的地まで、もしくは自分の契約している駐車場までたどり着くことができて、無事故でここまで来れたのはただのまぐれ・偶然・奇跡でしかない、と思って、果たしてそんな思いをしてまで運転する意味とは何だろうか。何も考えずにただ電車にゆられてどっかへ行って帰ってくるほうがはるかにあらゆる負担が少ないのである。

ただ、買ってよかったな、と思うこともちゃんとある。

何より昔からずっとあこがれていた車だし、見た目がめっちゃかわいくて最高だし、運転していて楽しくて、ああ、いい車だな、と思うこともある。
パートナーと一緒にドライブへ出かけて海沿いの道を走ったのもとても楽しかった。

今現在車を車屋に預けているが、パンダを運転したいな、という気持ちになっている。

今後自分の中で、車を所有するということ、自分の車のある生活というものがしっくりくるようになれればいいな、と思う。

とにかく人を傷つけたり人の命を奪ったりすることなく、また車をどこかにぶつけて物を物故わしたり車蛾物故割れたりすることなく、じじいになって腹部を鉄骨が貫通している状態で全裸でパルクールしながら笑って免許を返納するその日まで、平穏無事にこのパンダに乗り続けることができるように、ただ祈るのみである。