この年になるとおいしいものを食べることくらいしか楽しみがなくなる。
とかつて私がどどどくそくそドドドブラック企業(違法企業)で働いていたときに先輩が語っていた。当時私は27歳くらい、先輩は30代前半とかではなかったか。
おいしいものを食べることくらいしか楽しみがなくなるのはなんだか寂しいことのように聞こえるが、それでもおいしいものを食べるのは喜びである、ということは間違いない。
人類は基本的には経口摂取により生きる上で必要な栄養素を体内に取り入れるのであるが、どうせ何かを食べるならばまずいものよりもおいしいものの方がいいに決まっている。
ということでおいしいものを食べるのは喜びであるのだが、しかし食べている瞬間はおいしいおいしいと食べているが、その瞬間に舌で感得しているおいしさというのは写真や動画のように保存しておくことはできないし、刹那の快楽でしかない。
それにどんなにおいしいものでも一定の速度で箸なりスプーンなりフォークなりを動かし食べ物を口に運んでいたら、必然目の前のおいしい料理は跡形もなく消え去ってしまう。
ということで、おいしいものを食べるとああおいしいなあ、とか、うわーめちゃくちゃうまい!ベスト〇〇(任意の料理の名前)エバー、とか、うう、うますぎる……とか思ったり、なんちゅうもんを食わせてくれたんや……と歓喜の涙を流したりもするのであるが、しかしその一瞬の、刹那の喜びというのがあまりにも刹那のものすぎて、おいしいものを食べると喜びを感じるとともに最近はかなしさ・さびしさを感じるようになってしまった。
年齢のことをあまり言いたくはないが、40代に突入していきなり体に異変をきたしたり、疲れがやばいくらい取れなくなったりしている上に、あまりにも色んなことが秒で、瞬で過ぎ去っていくので、全ての生きとし生けるものはみな最後には死ぬ、みたいなことを思ったりとかして、おいしいものをおいしいおいしいと食べたところで……みたいに思って、かなしくなるのであった。
このおいしいものを食べるときの喜びがあまりに一瞬で消えてなくなってしまうことに対する対抗策のひとつとしては、量を食べることである。
私は普段ろくなものを食べていないので、比較的常にひもじい思いで過ごしているが、たまに限界がきて急に一人で焼肉食べ放題に行ったりしている。
食べ放題といえど所詮は一番安いコースでジェネリック牛カルビやジェネリック豚トロ、ジェネリック牛レバーなどを食べるだけなのでそんなにおいしいわけではないが、制限時間いっぱいに満腹の向こう側へ向けて胃袋にギュウギュウと(牛だけに、)合成肉を押し込んでいると、ものを食べているときの刹那の快楽が長く続くような気がしてかなしさをさほど感じずに済む。
これは過食すればかなしさを忘れられる、ということなのかもしれませんが、過食すると謎の安心感があるのは確かだ(?)。
おいしいものを過食するには金がかかりすぎるので、さほどおいしくないものをたくさん食べてかなしさ・さびしさを感じないようにする。ということでいいですか?
おいしいものは食べるとなくなってしまうし、舌で感じたおいしさというのも消え去ってしまうが、その点CDやレコードというのは購入して手元にあればいつでも聴き返してそのたびにしみじみとああ、いい音楽だなあ、などと思ったりして、繰り返し楽しめるので素晴らしい。これからもCDやレコードを購入していきたいと思う。