3017年7月26日土曜日

2025年予定

MCビル風は現在ライブ活動無期限休止中です。
またどこかでお目にかかれたらと思います。
それまでお互い元気でいましょう。
よろしくお願い致します。

2222年2月25日月曜日

July Tape

2019年の7月に作った3曲+去年SoundCloudに上げた1曲をまとめてEP『July Tape』としてBandcampにて公開しました。

Name your price(投げ銭)で無料でダウンロードできますので、よかったらぜひ聴いてみて下さい。

Bandcampのページはこちら

【曲解説】
1.『Mail You』
好きな人にメールを送ろうとするときの胸の苦しさ・高揚感についての曲ですが、その好きな人には好きな人がいて、それは自分ではないのです。

2.『Young』
その他の短編ズの森脇ひとみさんのソロアルバム『young』がとても好きで、そのアルバムでは人の生活の尊さ美しさについて歌われていて、そういった物事が自分の人生において確かにあると実感したときの狂おしいまでの愛しさや心の揺れ動きが『young』という語に集約された最高のアルバムなのですが、そのアルバムを聴いて自分なりの『young』を表現してみようと思って作った曲ですが、自分ではこういった感じのことしかできないのだな、と思いました。

3.『MCビル風のことどう思う』
昔ライブでやってた曲をちゃんと形にしてレコーディングしました。ラッパーとして活動していて一番気になることが自分は/自分の音楽は人にどう思われているのか?ということなんですが、ストレートにそのことを尋ねても案外誰も何も言ってくれませんでした(それでも言及して下さった方もいました。本当にありがとうございます)。もっと精進します。ビートは結構気に入っています。大々的に声ネタ入れた曲は初めてかもしれません。

4.『Renkyuu Beatz』
連休の中日に感じる宙ぶらりんな気持ちを表した曲。

2025年7月2日水曜日

2025年7月2日(水) material boi

家に物が多すぎる。

聴かないCDレコード、観ないビデオDVD、読まない本雑誌、使わない機材の数々。

家に物が多いとただ膨大な物が自分の周りにあるというだけでそれにより多大な脳みそのリソースが割かれているように思う。
脳みそが散らかった気分になり、それらを聴いたり観たり読んだり使ったりしなくては、という謎の焦燥感とプレッシャーに襲われる。

じゃあいらないものを売るなり捨てるなり処分したらいいじゃない、と思うでしょうが、それができたらこんなに物ばかり増えていないわけです。

昔、何かの用事で滅多に行かない埼玉の真ん中の方へ行くことがあり、どうせ行くなら、ということでブックオフとハードオフを訪れた。

ディグした膨大な量の100円CDを用いてDJをすることで有名な方がいるのだが、その人に感化され、なんか未だ見ぬ未知の (頭痛が痛い構文) 音楽に出会えたらいいな、くらいの感覚で100円CDをたくさん買ったろ、と思ってのことだった。
ハードオフは大抵駅からは離れたところにあるので、わざわざバスに乗ったり少々長い距離を歩いたりして店まで行った。

店ではとにかく気になったものを片っ端から買い物かごにぶち込んでいき、多分150枚くらい買った気がする。1枚100円 (税込110円) としても16,500円の買い物である。
150枚ものCDを手で持って電車に乗り持ち帰るのは非常に大変だった。20枚くらいの山を4つつくり、巨大なビニールの手提げ袋に入れ、それを2袋持ってえっちらおっちら駅まで歩いていき、電車を乗り継いで帰るのはまさに苦行であった。

さて、そんな大金を使って大変な思いをして持ってかえってきた大量のCDはどうなったでしょうか?

そう、皆さんお察しのとおり、大半のCDをろくに聴かぬままその巨大なビニール袋に入ったままで家の片隅に放置されていたのである。

大量のCD (しかも聴く前から大体がろくでもない内容なのは分かっている) が家の片隅に鎮座しているのはあまり気分のいいものではない。

音楽に貴賎なし。と私は思っているが、音楽に貴賎はないがくそな音楽はくそである。

まあ、いつか聴くでしょう、と思って放置していたのであるが、1日1枚聴いたとして、全部聴き切るには150日かかる。
くそな音楽を聴くために割く時間は残念ながら私にはなかった。同じ時間を消費するのであれば、くそな音楽を聴くよりはかっこいい音楽や素敵な音楽を聴きたい。

100円のCDを150枚買った後も、私は他のかっこいいCDや素晴らしいレコードもコンスタントに買っている。そちらを優先して聴きたくなるのは当然である。

というわけで、もしかしたら未知の素晴らしい音楽が眠っているかもしれない100円CDの山は、CDプレイヤーにセットされることのないまま眠り続けていたのである。

私の住むマンションは4畳半と6畳の2間の2Kの間取りである。4畳半の部屋にエアコンが設置されているため、そちらを居間兼寝室兼たまにボーカルを録音するスタジオバカとして使っている。
6畳の部屋には大量の機材がセットされ、音楽を制作するためのスタジオバカ別館として使っている。

どちらの部屋にも大量のCDレコードがある。それらは棚に収納されていたり、収まり切らない分は床に直置きされている。

以前友人が私の家に遊びに来た時、部屋が狭すぎる、物が多すぎる、としきりに言っていた。
ベランダに出たとき、ベランダが一番広い!と言って驚いていた。歩ける!と言っていた。

4畳半の部屋も6畳の部屋も、歩けるスペースは非常に少ない。なぜなら床に物が置いてあるので。

私はかっこいい音楽や素敵な音楽が収録されているCDやレコードを買うことがライフワークの一つなので、それらは無限に増えていくばかりである。
お金に困ったら聴かないものを売ったりしているが、基本的には売らない。

コレクターが無限にコレクションを増やしていくことは現実的には難しい。収納スペースには限界がある。
今までツイッターなどで公言したことはなかったが、私は数年間レンタル倉庫を借りていた。かつて住んでいた1Kの間取りのマンションには所有する大量の物たちが収まり切らなかったため、苦肉の策であった。
レンタル倉庫の2畳の部屋に、レコードが60枚くらい入る段ボール製の収納ボックスを12箱くらい置いていた。
単純計算でレコード720枚。ほかにCDやレーベルの在庫も置いていたので結構な量であった。

車購入に伴い毎月の駐車場代を捻出する必要があるため、そのレンタル倉庫は解約した。
倉庫に置いていた大量のレコードは、金に困って売りまくったので倉庫を引き払うときには全部で5箱くらいにまで減っていた。
その残った5箱のレコードは今の家の2間の部屋どちらにも置くスペースがないため、あろうことか台所に積み上げてある。レーベルの在庫は風呂場の入り口横に積み上げた。

ということで物を減らさないと頭が変になってしまいます、ということで、ハードオフで買った大量の100円CDをどうにかしましょう、となったんだけど、ケースにハードオフの110円という値札シールがべったり貼り付けてあるもんだから、ディスクユニオンに売るのは一寸 (いっすん) ためらわれる。どうせ値段の付かない1枚10円で引き取ってもらうことになるものばかりだろうからどうでもいいといえばそうなのだが、何となく気になる。
キャッチアンドリリース、ということで、釣った魚を川へ帰すように、ハードオフで買ったCDはハードオフへ持っていけばいいのでは?と思ったが、現在車が入院中のため無理である。

ということでブックオフの宅配買取を利用することにした。
スーパーでいらない段ボール箱を何枚かもらってきて、あとはいらないCDをひたすら箱にぶち込んでいくだけである。はは、楽勝。

そう思ったのであるが、いざ作業を始めると聴いてもないCDを次々箱にぶち込んでいくというのが自分にはできず、大変困惑した。
なぜできないのかというと、そのCDに未だ見ぬ未知の (頭痛が痛い構文) かっこいい音楽や素敵な音楽が眠っていたらどうしよう、という不安によってである。

ということで、愚かなことに1枚ずつ聴きながら選別を始めてしまったのでもうおしまいである。
といっても1枚通して聴いていたら日が暮れてしまうので、冒頭1曲かけてダメなら即箱にぶち込む、というスタイルにした。

それにしても。90年代~2000年代初頭にかけて雨後のたけのこ状態で無限にリリースされた判で押されたような全部似たり寄ったりの内容の大量のR&B系CDの多さに辟易した。買ったのは自分ですが。
胸キュン系のメロ~なR&Bチュ~ンは好きですが、私の好きなプロデュースチームであるUNDERDOGSワークスだけあればいいかもしれない。そう思い、大半は処分することにした。デスチャのアルバムに私の大好きなMASTER P御大が参加しているのに気づいて聴いてみたらかっこよくてくらったが、デスチャのCDを家に置いておかなくてもいいよな……と思う。置いといてもいいんですが。

THE BOOMのCDや久保田利伸のCDなど大量に買ってきているが、果たして自分の人生でこの先彼らの音楽を必要とする日がくるのだろうか?THE BOOMのリミックス盤にMAD PROFESSORリミックスなどが入っているのは非常に興味深いが、いまいちCDプレイヤーにセットする気になれない。
彼らの代表曲である『風になりたい』や『LA・LA・LA LOVE SONG』などは誰もが認める激!極!クラッシックであるが、クラッシックすぎて別に家で聴かなくてもいいというか、説明が難しいが、とにかくなんだか聴く気になれないのである。

110円で投げ売りされているCDは過去に爆裂大ヒットしたため売れまくったのでそのような値段で流通というかハードオフの店頭まで流れ着いてきたのだと思うが、そういったCDの絶妙な聴きたくなさ・聴かなくてよさというのは説明が難しい。同じ1時間を使うなら別のかっこいい音楽や素敵な音楽を聴きたい。

ということでちんたらCDの選別をしていたら脳みそがひどく疲れてしまった。
挙句レコード棚 (普段は積んであるCDのタワーたちの背後に隠れていてアクセスすることができない) に気が行ってしまってCDの整理選別そっちのけでレコード棚の整理が始まってしまった。
棚に刺さっていた80年代終わりや90年代初頭の得体の知れないオブスキュアなマイナーhiphopの12インチの数々にくらくらする。こんなのこの先聴くことあるのか?

しかし愚かな私はまたそれらの12インチをターンテーブルに乗せて聴きながら選別を始めてしまったのでもうおしまいである。
大半が今後私の人生において必要な音楽ではない、という判断となったため、ユニオンの宅配買取用の段ボール箱が半分埋まるくらいの量を棚からなくすことに成功した。

とにかくCDレコードが多すぎて気持ち悪くなってきた。

私は家の片付けというのが非常に苦手で、それはあれこれ考えながらやるので脳みそが非常に疲れるからで、だけどごみ捨てとかはちゃんとするので部屋中に飲みかけのペットボトルや空き缶、お菓子の袋とかのごみが散乱しているということは全くないのであるが、とにかく物が多いので家の中が雑然としている。雑然としている中でも多少の秩序がないと片付いて見えないので床に直置きながらもある程度の秩序を保って物を並べている。
だけどCDレコードに一切興味ない人から見たら全部ごみというか不要なものにしか見えないと思う。

私の住むマンションは築深すぎのため来年3月いっぱいで取り壊すことになり、それまでに引っ越さなくてはならない。
その来るXデーのために、少しずつ物を減らしていかないとまずいのである。

100円CDの処分が終わったら今度は普通のCDレコードも減らしていきたい。できる気がしないが。

40過ぎると自分に残されている時間というのはどうやら限りがあるらしいみたいなことを少し思うようになってきて、くそどうでもいいものに割く時間やパワーというのが非常に無駄に感ぜられるようになってきた。
コスパやタイパなどという考え方とは無縁でいたいと思うが、それでも自分が本当に好きなものにだけパワーを使いたいというか、とにかく脳みそをすっきりさせたい (?) 。

ツイッターで以前ある人がコレクターというのは無限に物を増やし続けられるものではないので、必然的に不要なものを処分していくためコレクションがどんどんソリッドになっていく、とツイットしていた。

私のコレクションはもちろん最高なものも多いがいいんだか悪いんだかよく分からないものはその3倍くらいあるかもしれない。
自分のコレクションをソリッドにする日。来るのでしょうか。引っ越すタイミングでそれになっていられるようにがんばりましょう。

2025年6月26日木曜日

2025年6月26日(木) mentally mad・その3

毎日暑すぎる。

この国の酷暑を生き延びるためにはエアコンの使用が不可欠だが、寝るときの温度・風量の設定が非常に難しい。
温度 (テレビ大陸温度) を高めにすると寝苦しいし、低めにすると明け方とかなんか寒い気がする。

ジャストの設定を見つけることができていないため、睡眠がくそになっている気がする。
そのせいであまり疲れも取れない。

前回の記事に書いたが、誤嚥性肺炎にかかり入院してしまった私のおばあちゃんは、入院から一週間もかからぬ内に無事退院した。その生命力に感服する。がんばったね。おばあちゃんが元気になって本当によかった。

私の車は現在修理点検のため車屋に預けてある。

どこの整備工場に問い合わせてもうちでは修理できません、と断られてしまい、唯一見るだけ見てみますよ、という返答をくれた、茨城 (!) にあるパンダに強いお店に頼みました。茨城、遠いね。常磐道を北上しました。

私が店に着くやいなや、そこの社長さんがおもむろに私のパンダのボンネットを開けてエンジンルームを見ていわく、ああ、オイルが漏れてるね、とのこと。あとバッテリーが変なのが付いててこのまま使ってると発火 (!) するよ、とのことで、それが分かっただけでもこのお店に頼むことにしてよかったと思った。
それにしても修理にいくらかかるのか今からとても怖い。怖すぎる。
車を預けた後は電車で2時間半 (!) かけて帰りました……。

それにしても。

車のない生活というのは正直快適である (!?) 。
何より運転しなくていいのがいい (!?!?) 。
車が手元にない以上車を運転できないので、事故を起こしてしまうかも、人を轢いてしまうかも、という非常に強い恐怖とストレスを感じなくて済むのがいい……。

車売ったほうがいいんじゃないの!?

私には何も分からない。

私は手元にある音楽制作のための機材などが壊れているのが非常に嫌いである。

何とかして使える状態にしたい。いつでも安心して使えるようにしたい。
という強い欲求に突き動かされ、すぐに業者に修理に出すなり自分でできそうならDIYで修理を試みる。
私は手先が不器用なので、自分で修理しようとして機材を物故わしてしまうことが今まで何度となくあった。
自分で物故わしてしまったときはめちゃくちゃ悲しく絶望的な気分になる。お金はかかるが業者に依頼するのが確実である。
ただ、機材直っても直ったことに満足しちゃってそこで終わってしまってその機材を結局使わなかったりするんだよね。
直した意味ないよね。

ということで今回車が不調になるや否や直ちに修理してくれるところを探して片っ端から問い合わせ、見てもらうことにしたのである。

しかし。

それが自分の体のこととなると、てんで無頓着というか、私の中で自分の健康についての優先順位が非常に低い。

左足の痺れを放置している。

先日受けたMRI検査の結果、腰には特に異常はなかった。
整形外科の先生も検査結果を見ながら首をひねっていた。

出される薬を飲み続けていても特に何も変わらないので、かかっていた整形外科も行くのをやめてしまった。

ストレッチ整体なるところに行って2度足の施術をしてもらったが、治らなかった。
おじいちゃん先生がもう治ったでしょ、もう全然痺れてないでしょ、としきりに言うので、まだ治ってないが……と思いながらもそうですね、大分よくなりました、と誰の何のためなのか全く分からないウソをついて、そこにも行くのをやめた。

パートナーからは別の整体や鍼灸などを受けることを勧められているが、えらい腰が重く、まだ何のアクションも起こしていない。

自分でおかしいね、と思う。

ジャンクで買った機材が正しく動作しないとどうにかしてこれを復活させたいという強い欲求が働いてすぐにでもどうにかして直したくなるが、自分の足がずっと痺れているのについてはそのように強く思わないのである。

自分を大切にすることが昔から非常に苦手である。

それについて色々書こうと思ったけど、続きを書く元気がありませんので今日はここで筆を置かせていただきます。

お読みいただきありがとうございました。

2025年6月11日水曜日

2025年6月11日(水) mentally mad・その2

生活が苦しい。

正確には生活することが苦しい。

金がないのはもちろんだが、何より生活にまつわる諸々をするのが非常に苦しい。

仕事から帰ってきて夕飯をどうにかするのが大変に苦痛である。
いや、昼間仕事の中で昼食を食べることも大変に苦痛だ。

何より何も食べたいものがない。
昼食は毎日会社の近所の my basket で鶏むね肉の棒棒鶏風サラダと魚肉ソーセージとおにぎりをひとつ食べている。 毎日毎日毎日。もう食べたくないな……と思いながら、それらを手に取りレジに並んでいる。

そんなにうんざりしているなら別のものを食べればいいじゃない (パンがなければお菓子を食べればいいじゃない) 、とマリー・アントワネットじゃなくても思うでしょう。

だけど、どうせうんこの塊みたいなうんこ弁当 (全ての食べ物は最終的にはうんこの塊になる) を食べるよりは、少しでも体にいいものを食べたほうがいい、という強迫観念的なものもあり、結果毎日同じものを食べている。

夕飯も、(1). とにかく金がかからず (2). とにかく調理の手間がかからず (3). 少なからず栄養のあるものを、ということで、毎晩小松菜カレーを食べている。豚肉と小松菜を炒めてレトルトカレーに乗せ、納豆と生卵を乗せて食べるというバカみたいな食事である。

うんざりしている。

金があれば外食できるが、金もないし、そもそも食べたいと思うものがない。

しかし生きていくためには何かを食べないといけない。何も食べなければ動けなくなってしまう。

では動けたからといっていったい何をするというのか?

精神的・肉体的な疲労により何もできず、畳の上に転がって無限にスマホをドゥーム・スクローリングし続けるのが関の山である。

私はアンドロイドを使っているのだが (現代のティーネイジャーはアンドロイドを使っているだけでいじめられるらしい、真偽不明) 、ホーム画面を右にスワイプすると、都度最新のネットニュースが一覧で表示されるようになっている。

そこで目に飛び込んでくるのは、毎日のように日本全国で交通事故で人が死んでいるニュース。また毎日のように日本全国で熊が出没しているニュース。

とにかく毎日人が死んでいる。車のせいで。
なぜか海外のニュースは私のスマホには表示されない。ガザの虐殺やロシア・ウクライナの戦争など毎日海外では地獄のようなことが続いているが、それは私の心に暗い影を落としているが、それよりも日々私の心を暗くするのは交通事故のニュースである。

車を所有していなかったころはこのようなことはなかった。

また交通事故以外でも強盗殺人やなんかよく分からない理由で人が人を殺すニュースなども流れてくる。

以上のように悲惨なニュースが羅列される中、かわいい猫のほのぼの紹介記事なども混ざって流れてくるもんだから、本当に頭がおかしくなってしまう。

毎晩のように何もできぬまま人が死ぬニュースとかわいい猫の記事を脳みそに注入し続けている。

世界は狂気のシステム。と歌ったラッパーがいたが、世界は狂気のシステムである。

そんなにつらい気持ちになるならニュースを見なければいいのでは?と思うでしょうが、では他に何ができますか?
脳みそが終わっているので本は読めないし、機材をいじって音楽をつくる元気もない。

平日元気もモチベーションも皆無のまま何とか力を振り絞ってどうでもいい食事をこしらえ食べた後は、もう何もする気になれない。
ただネットのニュースにより脳みそが疲弊し、心も傷つけられ、うだうだしてるうちに0時近くなっている。

翌日の日中をある程度まともな状態で過ごすには、それなりにまとまった睡眠時間を確保しなくてはならない。ので、0時前後には布団に入らないといけない。それすらままならないことも多いが。
平日の夜が、単なる翌日のための待機時間になってしまっている。

では翌日何が起こるのか?

死にながら働き、くそみたいな食事をとり、くそみたいなニュースを脳みそに注入し、またその翌日のために寝るだけである。

「繰り返す日々に何の意味があるの」、とナナ・フィーチャリング・ミカ・ナカシマも『グラマラス・スカイ』という曲で歌っていたが、本当に苦しい。

いったいこれは何なんですか?

毎日生きているのが苦しい。

足のしびれが治らなかったり所有する車の調子がおかしくなったり (そう、またおかしくなっている、今度は走行系がおかしい) しており、不運 (ハードラック) と踊 (ダンス) っちまっている日々なのであるが、パートナーがもしかして厄年なのでは、と言って、私は3月で40歳になったのだが、前厄は41歳でしょ、と思い気にしていなかったのだが、厄年というのは満年齢ではなく数え年で見るシステムらしく、まんまと私は今年前厄なのでありました。

ということでパートナーの助言により先日神社で厄払いを受けてきた。車の交通安全祈願も一緒にやってもらいました。

色々と靴の中に小石が入りっぱなしになってしまっているような、なるべく小さな不幸せが次々と自分の身に降りかかっている日々だが、昨夜叔母さんより連絡があり、大好きなおばあちゃんがなんと誤嚥性肺炎で入院してしまったというのだ。

おばあちゃんは今年の9月で96歳になる。早くよくなってほしい。

まじで毎日が苦しい。これがミッド・ライフ・クライシスというやつなのか。なんか違う気もするけど。

毎日音楽は聴いているが、残念ながら今の自分を救ってはくれないようだ。

このブログ、もはや日記でも何でもないが、今の自分にはアウトプットできる場所がここにしかありません。

お読みいただきありがとうございました。



2025年5月30日金曜日

2025年5月30日(木) 春村謙吾のしびれ・その2

前回までのあらすじ―

なんか知らんけど3月の終わりくらいから突然左足の小指~かかとくらいにかけて常にピリピリと痺れを感じるようになってしまった春村謙吾であったが、整形外科の先生曰くひとまず薬を飲んで様子を見ましょう、痺れが取れるまで2~3か月はかかるのでじっくり治療していきましょう、ということになった。

ということで薬を一か月くらい飲み続けても特に症状に変わりがなかったので、一度精密検査を受けてください、ということになり、先日専門の医療施設へ行ってMRI検査を受けてきた。

ECDの最後の著書『他人の始まり因果の終わり』で、癌で闘病していたECDがMRI検査を受けるくだりがあったのだが、そこでの描写が凄まじかったのを覚えている。

ECDは激しい闘病により弱り切った体でMRIを受けるのだが、MRIの機器の内部に台上で横たわった状態で入っていき、検査中機械の動作音が爆音で鳴り続ける。機器の内部で横たわり検査を受けるその間、弱り切ったECDが耐えかねて「助けてーっ!」「死にたくないよーっ!」と絶叫し続ける、といったものだったと思うが (うろ覚え) 、私が自分でMRI検査を受けることになり、その壮絶な描写を思い出して震え上がっていた。

ということで検査当日。朝一の検査を予約したため、普段仕事へ行くときよりも早く起きて、支度をしてクリニックへと向かう。

クリニックへ着き、簡単な問診を受けた後、検査着に着替えていざMRIの機器が鎮座ましましている部屋へ。

そこはスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』さながらのような気もしないでもなくもないような部屋のど真ん中にでかい機械があり、なんでも台の上に横たわってMRIの機器内部に吸い込まれていくらしい。

私はびびっていた。問診のときに閉所恐怖症ではないですか、と問われていたので自分は特に閉所恐怖症の気はないが、そう聞かれると急になんだか狭いところに数十分の間閉じ込められるのが怖いような気がしてきて不安が加速する。

台上には頭の形にくりぬかれたような頭部を固定する部分があり、そこに頭を入れて横になるのだが、検査中は大きい音が鳴るのでヘッドホンをしてください、と言われてヘッドホンを渡される。ヘッドホンをした状態で頭がスポッと固定部にぴったりはまるので、ぴったり……と思った。ヘッドホンからは検査中の不安感を和らげるためにイージーリスニングの穏やかなピアノ曲が流れ続けている。検査の間、目は開いててもつぶっててもいいですよ、とのこと。

そしていざ検査開始、ということで、台がウイーンと動き出し、巨大な筒の中へ。

せ、せまい……。すぐ目の前には白い婉曲した壁がある。

自分は閉所恐怖症ではない、そう思っていたが、いざMRIの機器の中に突っ込まれると、なんだか怖くなって呼吸が浅くなり息苦しい感じがしてきた。

ヘッドホンから流れ続けるイージーリスニングのピアノは私の不安感をなんら軽減するものではない。もっとなんかユーロビートとかEDMとかのBPMの速いぶち上げパーティーチューンを爆音で流してほしい。

強い不安感と息苦しさにより、私は迷わず固く目を閉じた。

ヘッドホンの向こうからピーーーーーーーとかガーーーーーーーーとかゴウゴウゴウとかのインダストリアル・ノイズが爆音で鳴っているのが聞こえてくる。
私はWHITEHOUSEなどのパワエレとかノイズとかのCDレコードを若い時分に収集しており、ノイズ・ミュージックに多少慣れ親しんでいたので、そのノイズはさほど不快ではなかった。

早く終わってほしい、とただ祈っていたのだが、今度はそのうちに便意を催してきた。おならがしたいのだが、検査中は動くな、と言われていたので身体を動かしておならの気をそらすことができない。

それにしても、足が痺れていること以外はなんら身体に異常のない健康体の自分でさえMRI検査はしんどいのだから、もっと大変な病気を患っている人にとっては大変負担の大きい検査であろう。

ECDのことや、私の大好きなおばあちゃんのことを思う。うちのおばあちゃんは健康だが。

15分~20分くらい筒の中にいただろうか?検査終わりです、と告げられ、自分の横たわっている台がウイーンと動き出し、筒から出された。

検査着から着替えて待合室で10分ほど待ち、検査結果のデータの入ったディスクを渡されて終了。保険適用で検査費用が8,000円近くかかり、血の涙を流す。

今度はこの検査結果を持って通っている整形外科へと行って先生の話を聞かなくてはならない。

めんどくさい……し、もしMRI検査で大きな問題が見つかっていたらどうしよう。手術とかになったらどうしたらいいんだ。怖すぎるし嫌すぎる。

次回へつづく―

2025年5月21日水曜日

2025年5月21日(水) みんな元気か

「BRKZ spit the flow みんな元気か みんなって誰? I don't know...」

というリリックが『MCビル風のテーマ』という曲の冒頭であるのだが、自分で自分のリリックを引用するようになったら終わりだが、私はラッパーとしてはもう終わっているので構わない。

みんな元気か (みんなって誰) ?

私にはかつて大勢の友達がいたが、今はそのほとんどと疎遠になり、友達と呼べる人もだいぶ少なくなってしまった。

かつて私の友達が、人と人との関係というのは惑星の配列のようなものだ、と言っていた。
それぞれの軌道で周回し続ける惑星たちが、偶然に近づき、そしてまた離れてゆく。

私にそう語ったその人とは、ずいぶん昔に私のせいで絶交されてしまった。笑うしかない。
もう一生会うこともないだろう。

周知のとおり生きとし生けるものみな全て最後には必ず死ぬので、好きな人や会いたい人にはできるだけ会ったり連絡を取ったりしたほうがいい。死んだら会ったり連絡を取ったりすることができないので。

好きな人たちのことを考える。

先日DEV LARGEとLarge Professorの対談が読みたくてFRONTという古い雑誌を某ルカリで購入したのだが、その雑誌に連載されていたDEV LARGEのコラムにてNIPPSからのラブ・ポエムが掲載されていた。
NIPPSの言葉遣い・言葉選びがILLすぎて読んだら度肝を抜かれたのであるが、そこでNIPPSはnothing changes but 天気、という文句を連発していて、要するにこちらは特に変わりなくやっているよ、変わるのは天気くらいだよ、というくらいの意味だと思うが、韻を踏んだその語感は常時あいさつとして使いたいくらいのキャッチ―なものであるが、果たして変わらないものなどあるだろうか。

「いつまで経っても変わらない そんな物あるだろうか」とヒロト・コウモトが『情熱の薔薇』という曲でうたっていたが、「あの時 同じ花を見て 美しいと言った二人の 心と心が今はもう通わない」とザ・フォーク・クルセダーズのカズヒコ・カトウとオサム・キタヤマがうたったとおり、この世に変わらないものというのはおそらくないと思われる。

「僕は元気でいるよ 心配事も少ないよ ただひとつ 今も思い出すよ」とバンプ・オブ・チキンのモトオ・フジワラが『天体観測』という曲でうたっていたが、私も元気でいるし、しかし心配事は金がないことをはじめ色々あるが、ただひとつ今も思い出すし、宛名の無い手紙も崩れる程重なっているのである。

私が何を言ってるのかわからねーと思うが、催眠術だとか超スピードだとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねーのである。
「神様 時間止めて」とザ・コレクターズもうたっていたが、時間を止められるのはディオ・ブランドーと空条承太郎の二人だけであるし、また彼らはまんがの登場人物である。

それぞれの軌道で周回し続けている惑星たちが、今日もまた近づいては離れてゆく。
それぞれの置かれた場所で花々が咲いている。

年齢を重ねるにつれ、それぞれ各人の置かれている環境・生活というのは変わっていくものであるし、会うのが困難になる場合もある。

いつまで経っても変わらない そんなものあるだろうか、ということだけど、まあ過去というのは変わらないというか変えたくても変えようがないので、過去に関しては既に起こった確実なもの、と言えなくもないと思うので、私の中の確かなことといえば、

「こういった場所すべてに それぞれの瞬間がある それにまつわる恋人や友達を 僕はいまだに思い出せる 死んだ人もいるよ 生きている人もいる 僕の人生で 僕はその人たちをみんな愛していた」

とザ・ビートルズのジョン・レノンが『イン・マイ・ライフ』という曲でうたっていたように、私の人生で私はその人たちをみんな愛しておりました。